2026年3月22日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」
2026年3月22日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」
聖書―ルカによる福音書23章26~43節
(はじめに)
受難節の時を過ごしています。いよいよ来週29日から受難週です。イエスさまが私たちを罪から救うためになさった十字架の出来事をおぼえる時です。今日は、その出来事が書かれている聖書の言葉から聴いていきたいと思います。
(聖書から)
お読みした聖書には、イエスさまがゴルゴタの丘へ向かう途上の様子が書かれていました。
23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。23:27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。
イエスさまはお一人で十字架を背負っておられました。その途中のこと、シモンというキレネ人がイエスさまの十字架を一緒に背負うことになりました。この人は、イエス様とは何の関係もない人でした。イエスさまが十字架を背負う姿を見て、「よし、私もイエスさまの十字架を一緒に背負おう!」と決心して、意気揚々として背負ったわけではありませんでした。お読みしたルカによる福音書には書かれていませんが、マタイによる福音書、マルコによる福音書には、それぞれ、ローマの兵士たちがキレネ人シモンに、十字架を無理に担がせたことが書かれています(マタイ27章32節以下、マルコ15章21節以下参照)。しかし、今日お読みしたルカによる福音書では、「兵士たち」とは書いておらず、「人々」となっています。人々が、シモンに十字架を担がせた、というのです。また、「無理に担がせた」とも書いてありません。なぜ、福音書によって、このような違いがあるのでしょうか。もしかすると、ルカは、シモンに十字架を担がせたのは、「兵士たち」ではなく、「人々」と書くことによって、この聖書の言葉を読む人たちに考えてもらうようにしたのかもしれません。「人々」とは誰のことか。それは、この福音書の記者であるルカ自身のことであり、また今、この福音書を読む私たち一人一人のことであると受け止めてもらうように意図してそのように書いたのかもしれません。
もう一つ、ルカによる福音書だけに書かれていることが、27節の言葉です。「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った」。この「民衆」、そして、「嘆き悲しむ婦人たち」というのは、誰のことでしょうか?その中には、イエスさまと常に行動を共にしていた十二弟子はいたのでしょうか?いいえ、「民衆」とは、「嘆き悲しむ婦人たち」とは、今まで、イエスさまと深く関わりを持っていたわけではない人たちだと思いますが、そういう人たちが「イエスに従った」と書いているのではないでしょうか。では、彼らはイエスさまに従っていったのでしょうか?「イエスに従った」とはありますが、イエスさまが十字架を担いで歩いて行く。その後にただ付いて行っただけなのかもしれません。いろいろなことが考えられますが、私はこのように考えてみたいと思うのです。イエスさまが十字架を担いで歩く姿を見ただけかもしれない人々。けれども、彼らの心の中には、この方はいったいどのような方なのだろう?とイエスさまに関心を向けるようになっていった。そのようにして、イエスさまを知ろう、イエスさまに従ってみよう。そういう心が芽生えてきた。そんなふうに考えてもよいのではないかと思っています。
さて、イエスさまが十字架におかかりになる時、イエスさま一人だけではなかったことが、32節以下の言葉から分かります。
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
34節の中には、括弧書きでイエスさまの言葉が書かれています。括弧書きというのは後で加えられた言葉ですが、だからといって、価値がないとか、信ぴょう性がないということではないと思います。イエスさまが十字架の上で祈られていた言葉を聞いた人がいて、後になって加えられたのかもしれません。
イエスさまの言葉、イエスさまの祈りはこのようなものでした。「そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」」。この祈りは誰のための祈りでしょうか?イエスさまを十字架にかけた人たち。イエスさまをローマの十字架刑に至らせるために仕組んだ人たち。ユダヤの指導者の人たちであるとか、総督ピラト、そして、実際にイエスさまを十字架にかける作業を行ったローマの兵士たち・・・。そのように答えることもできますが、皆さんの中には、この聖書の言葉を読むたびに、「この私のためにイエスさまは祈ってくださったのだ」。そのように受け止められる方がいるのではないでしょうか。私もその一人です。「彼らをお赦しください」。この「彼ら」というのは、二千年前の誰かのことに留まらず、今、この言葉を聴く私。私たちは、そのようにこの祈りの言葉を受け止めていけたらさいわいだと思います。
イエスさまは、「自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。自分が何をしているのか知らない。これは、罪のことを言っているのだと思います。自分の罪が分からない。皆さんの中で、自分の罪が分かると言える方がいるでしょうか?私には、こういう罪があり、ああいう罪がある、と明快に答えることができるでしょうか?いいえ実は、私たちは、自分の罪さえも分からない者だと思うのです。自分でも気づいていない罪がある。いや気づいていない、そのことすらも分からないでいる・・・。この前もお話ししましたが、聖書が教える罪というのは、人と比べて、自分の方が罪深くないとか、犯罪をしたことがないから罪がないとか、そういう話ではありません。聖書が私たちに教える罪、それは神さまに対しての罪ということです。言い換えると、神さまから見た罪ということです。
自分が何をしているのか知らない。自分の罪が分からない。そういう私たちのために、主は祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください」。私たちは、主を求め始めた時には、主を信じて間もない時には、「父よ、彼らをお赦しください」ということも、十字架のことも、まだぼんやりとしか分からなかったかもしれません。しかし、主に従う歩みをしていく中で、聖書の言葉に生きていこうとしていく中で、いかに自分には愛がないのか、神さまの心から離れているのか。そういうこと一つ一つに気づかされていって、自分が一人の罪人という意味が本当に分かってきて、後になって、主が十字架の上で祈られた祈りが、イエスさまの十字架が、本当に私のためだったのだ、と知らされ、気づかされていく。私たちは、その途上にあるのではないでしょうか。
十字架にかかられたイエスさま、そして、イエス様と一緒に十字架にかかった犯罪人。その会話がこのように書かれています。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
当時、ユダヤでは、このイエスこそが来たるべきメシア、救い主ではないか。政治的な、経済的な救い主としてこの方が何かやってくれる、と人々から大きな期待が寄せられていました。けれども、そのイエスという人は、十字架にかけられるという結末を迎えようとしていました。それで多くの人々は失望していました。この一人の犯罪人の言葉というのは、そういう声を代表するものだったと思います。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。救い主として期待していたのに、人々も、自分自身でさえも救うことができない、何と無力な、何と憐れな人間。そう言っているようです。
しかし、もう一人の犯罪人はこう言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。この犯罪人は、イエスさまという方がどういう方であるのか気づき始めたのです。「この方は何も悪いことをしていない」。罪のない方が十字架にかけられた。どういうことなのだろうか・・・。そして、彼はこうも言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。「あなたの御国」とは天の国、神の国のことです。この犯罪人は、罪のない方が十字架にかけられた。むしろ、そのことで、この人こそ、救い主。その救いというのは、人々が考えていたような救いではない。私たちを罪から救ってくださる救い主と信じたのではないでしょうか。だから、彼はこう言ったのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。
主は彼にこう言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。主は、ご自分を信じたことを受けて、こう言われたのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。イエスを主と信じたら、その人は今日、その人は今、楽園にいる。神さまの御国、天の国にいるというのです。「わたしを思い出してください」。それはこの犯罪人の信仰告白です。そして、イエスさまが言われた「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。それは救いの宣言です。あなたは今日、今、救われた、と主は言われたのです。
(むすび)
キレネ人シモンの記事を読むと、皆さんはまるで自分のことのようだ、と思うのではないでしょうか。まだ罪も赦しもはっきりと分からないうちは、教会の働きなど、無理やり担わされているように思っていたかもしれません。けれども、信仰の歩みを続けていく中で、自分の罪ということ、イエスさまの十字架が、救いが本当に分かってきた。私の罪のためにイエスさまは十字架にかかってくださったのだ。イエスさまの執り成しによって私は赦されたのだ。そのことが心から分かってくるようになってきて、私は救われたのだ。私を救ってくださった主に対する感謝の応答として、主のために、教会のために、あのことを、このことを担わせてほしい、と思えるようになってきた。そういう証しのある方は皆さんの中にもおられるでしょう。
キレネ人シモンについて言うと、マルコによる福音書では、「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(マルコ15章21節)と書いてありました。アレクサンドロとルフォスというのは、初代教会のメンバーだったと言われています。その父であったのがキレネ人シモンなのです。シモンは、イエスさまの十字架を担がされた時は、なんで私が!?と渋々担いでいたのかもしれませんが、後になって、あの時のあの十字架はこの私の罪を救うためだったのだ・・・。そのことが分かった時、それは忘れられない大切な思い出になったのではないでしょうか。そして、その証しは子供たちに伝わって、それを聞いた子供たちもイエスさまを信じて、教会を担う人となっていったのではないかと思うのです。イエスさまの十字架はこの私のためであった。そのことを私たちはいつもおぼえていたいと思います。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
受難節の時を過ごしています。毎年、この季節には、繰り返し、繰り返し、主の十字架と復活の聖書の記事を読み、過ごしています。しかし、それでも、罪を忘れ、赦しを忘れてしまうようなことが度々あるような私たちです。どうか、いつも信仰の目を見開いて、この私のために、主がなさった救いのみわざを思い、主への感謝と喜びに生きる者とさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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